礼拝の後、感謝について考える
午前中は礼拝。メッセージの直前に家内がペンを足元に落としてしまう。椅子と椅子の間にはさまって取れそうもない。私が自分のシャープペンシルを家内に貸す(だからどうした、というわけではなく、ふと思い出したので書いておくだけです)。
メッセージを聞きながら、昨日日記に書いていた「軌道修正」ということをぼんやりと考えていた。それから「どろで汚れた人」は自分のことを「シャワーを浴びる資格のない人間」とは思わないのに、どうして多くの人は自分のことを「教会にいく資格のない人間」と思うのだろう、などということをぼんやりと考えていた。
礼拝の後、お祈り。神さまに感謝する。さまざまなことを神さまに感謝する。あたりまえのように思っていることも、あらためて声に出して、一つ一つ数え上げるようにして神さまに感謝すると、なんだかとってもうれしくなってくる。感謝をしていると、自分がもっとうれしくなるというのは、何だかへんな気もするが、当然のようにも思う。
感謝はいくらしても「し足りる」ということはない。そして、すればするほど、自分がさらに恵まれる。うれしくなる。「ありがとう」という言葉の不思議。感謝すればするほど、自分が何だか自由になった気もする。自分がまっすぐな、ひっかかりのない、パイプというか、道というか、そういうものになったような気分。あるべき姿。あるべき状態。