結城浩のはてなブログ

ふと思いついたことをパタパタと書いてます。

「支配」について考える

道をあるいていて、ふと「支配」ということについて考える。きっと祈りについて考えていたからだ。ある信仰の先輩に、Webで祈るということを話したことがある。するとその先輩は、「祈る相手を支配するという誘惑に注意」という主旨のことをアドバイスしてくださった。いまでもよく覚えている。支配。相手のためになるから、相手のためだから、と言って、いつのまにか相手を自分の「支配下」に置きたくなるような誘惑に注意ということだろう。いろんな形の誘惑がある。
支配の形態にもいろいろある。もっともイメージがわきやすいのは、大きな声で、相手を支配する。命令口調で相手を支配する。でも支配はそれだけではない。泣くことで支配する。ぐずることで支配する。ニコニコ顔で支配する。皮肉で支配する。方法はどうあれ、要するに、自分の都合で自分のやりたいように人を動かそうとしていたら、それは支配だ。つまり、方法ではなく、意図がポイント。
支配はおうおうにして、相手の個性を無視する。相手の都合を無視する。相手の意思を無視する。無視するまでいかなくても、優先度を下げて処理する。時には十把一絡げで扱う。支配。
ややこしいのは「ああ、ごめんねえ。わたしは、あなたの都合をかんがえてなかったねえ」と相手にあやまるふりをして、相手を支配するという方法もあるということ。相手に「いいんだよ」「そんなことないよ」と言わせたいという欲望。やれやれ。
と、そこまで考えてきて、ふと、人を支配したいと思う人は、自分自身が「支配したい」という欲望に支配されているのかもしれないと思った。少なくとも、私がはっと「あ、これは人をコントロールしたがっている」と思うときはそうだ。我知らず、欲望に支配されている。つまりは奴隷になっている状態。自由ではない状態。怖いなあ。
他者の目が必要だな。フィードバックが必要。他の人から耳の痛いことを言われたときに、(たとえむっときても)きちんと耳を傾ける姿勢が大切かもしれない。そのためには自分の中の何かを殺さなければいけないね。
自分の中の殺すべきものを殺す。生かすべきものを生かすために。