結城浩のはてなブログ

ふと思いついたことをパタパタと書いてます。

すべてトレードオフ

JASRACに著作権を預けた曲でも、作者が「不快」なら自由に差し止められる?というyucoさんの記事のコメントに、結城は以下のように書き込みをしました。

hyuki (2006-02-07 (Tue) 23:23)
「使われ方をコントロールしたがるアーティスト」と思われると、今後使われる可能性は減るでしょうね。あ、それがこのアーティストの望むことなのか…。
自分の作ったものだから強くコントロールしたいと思えば思うほど、幅の狭い使われ方しかされない。つまりは、作品がアーティストの枠の中で閉じてしまいますね。まあそれもバランスなんでしょうけれど。

それに対してゆきちさんから、以下のようなコメントをいただきました。

結城さんのコメントなのですが、結城さんは、この件に肯定的なのでしょうか、否定的なのでしょうか。

以下、それに対する返事です。
短い答え:肯定的でも否定的でもありません。
長い答え:もし、このアーティストさんの主張が通った場合、楽曲の利用のされ方は、このアーティストさんの意向に沿ったものになるでしょう。その意味で、このアーティストさんは満足なさるでしょう。しかし、もしアーティストさんがコントロールを弱めるなら、より広い範囲(アーティストさんが想定していなかったような範囲までの利用)がなされ、その楽曲の可能性が広がるかもしれません。コントロールするということは、その機会を捨てることでもあります。もちろんこれは仮定の話ですから実際にどうなるかは誰にもわかりません。
…ということを考えていました。その背後には、強くコントロールされたソフト(例:プロプライエタリなソフト)と、弱くコントロールされたソフト(例:フリーソフト)の連想があります。強くコントロールされたソフトは、著作権者は「安心」できるけれど、利用シーンは限定されることになる。一方、フリーソフトはどんな方向に使われるかわからないから、もしかしたら著作権者が想定しなかったような使われ方をされるかもしれないので「安心」できないかもしれない。しかし、想定以上のとてつもない利用シーンが広がる可能性もある。
ということで、このアーティストさんを肯定する否定するというスタンスではなく、「著作権者が作品の利用のされ方を限定するというのは、必ずしもよいことばかりではない。権利というものはそのことを分かった上で主張したほうが(著作者本人にとって)良い」だろうな、と考えました。クリエイティブ・コモンズのSome Rights Reserved.という言葉に通じる考え方だと思います。
そう簡単に「何が良い」と言えるものではないと思います。すべてトレードオフがあります。たとえば私にはフリーで公開しているテキストもあれば、本として出版し他人が勝手に使えないテキストもあります。私はその両者の著作権者であり、それぞれのテキストの役割を考えて権利関係を決めているわけですね。私はトータルで最大のメリットが出るように考えた上で判断しているつもりです。
本そのものは勝手にWebで公開されては困る。けれど、「本に書かれているソースコードを別のプログラミング言語に移植してWebで公開したいです」というような申し出があった場合には喜んで「許諾」しています。これは、本という形になった「強くコントロールされている状態」を緩和させる試みでもありますし、それが読者なり移植者の便宜を図ると判断したからです。許諾したほうが書籍の宣伝になるという判断もあります。
現代は、ブログなどの普及もあり、いろんな人が「著作権者」として表に出てくる可能性が高いですよね。で、自分の作品を公開するとき、自分はこの作品をどの程度コントロールしたいのか、それは誰にとってどういうメリットがあるのか、をよく考える必要があると思います。
良く考えた上で、どういう権利関係を設定するかはもちろん著作権者の自由だと思いますし、それを他人が必要以上にどうこういうのはちょっと違うかな、と思います。
著作権者による作品のコントロール」という問題と「JASRACとの関係」は別の問題になりますが、後者についてはいまのところ特に意見はありません。アーティストさんの契約書を詳しく読んだわけでもありませんし。
これでお答えになっていますでしょうか。